SPACE FACTORY 2006
シリーズ4
『夢の浮橋』〜源氏物語より〜
巻の二「逃げる女 ―空蝉―」
■概要 義母である藤壺との禁断の恋に悩ましい日を送っていた若き光源氏は、その思いを断ち切ろうとするかのように、とめどない女性遍歴を繰り返します。
ある夏の寝苦しい夜、部下の老父である伊予介の館へ方違えで立ち寄った源氏は、家人の隙をついて伊予介の後妻の空蝉と強引に契りを結んでしまいます。不意を襲われた空蝉は、なすすべもなく一度は源氏に抱かれますが、その後は一貫して彼を拒み続けます。とはいえ、彼女は源氏を嫌っていたわけでありませんでした。むしろ、彼の溢れんばかりの魅力に負け、惹かれてしまったからこそ避け続けたのでしょう。もしかすると、若くて身分も容貌も申し分のない源氏への思いは、人一倍であったかもしれません。
しかし、謙虚で、人の心の動きを読み取る力を持ち合わせた彼女は、源氏ほどの男が自分のような中流の、しかも年上の人妻で、さしたる美貌も持ち合わせていない女に本気になるはずがないことを知っていたのです。
空蝉は、一時はその才を買われて帝から出仕を求められたこともあったほどの女性でしたから、今は生活の困窮から地方官の後妻となっている己の境遇に、心の空虚さを感じていたに違いありません。この出来事が、今のように身分が定まってしまう前なら、どんなに良かったことか。
ところが恋愛とは皮肉なもので、空蝉がつれなくすればするほど、光源氏は彼女にのめり込んでいきます。源氏は、再びの逢瀬を彼女に幾度となく迫るのですが、そのつど拒絶され、挙句の果ては、空蝉の寝所に強引に忍び込んだものの、気配を察知して薄衣だけを残して逃げてしまった空蝉の代わりに、彼女の義理の娘である軒端荻を抱く葉目に陥るという始末です。源氏は空蝉の残した薄衣を抱き、ますます思いを募らせるのでした。

それまでどんな女性も容易く手に入れていた源氏にとっては、これはまったく予想外の展開であり、空蝉がどんどん引いてゆく態度は、源氏の思いをさらにあおることとなりました。空蝉こそが慎み深くて奥ゆかしい、この上なく素晴らしい女性に思えてくるのでした。

身の程をわきまえ冷静に現実を直視し、時折やさしい態度を見せながらも男を拒み続ける女と、軽い気持ちで仕掛けた恋のはずが、意のままにならぬ相手に翻弄され、いつの間にか本気になり、女に対する虚像をどんどん膨らませ実体をこの手に掴もうと躍起になる男。
しかし、虚像に振り回されているのはじつは男のほうばかりではなく、頑なに閉ざした女の心のうちにも、平凡な日々に突然訪れたまたとない恋への幻想が徐々にふくらみ、心を激しく揺さぶられ始めており、それと同時に、女は己の日常生活の空虚さをあらためて現実のものとして目の前に突きつけられ、その惨めさにますます苛まれているのです。
いったい何が実体で、何が陰なのか。
“追えば逃げ、退けば寄り添う”という、現代にもありがちな男と女の恋のシーソーゲームの向こうに、虚と実の間で葛藤する人間の姿が浮かび上がってきます。空蝉が残した薄衣は、その象徴ともいえるでしょう。